買取の実態
Tは企業といえども社会に果たさなくてはいけない責任があると主張し、社会に現存するあらゆる社会問題、すなわち当時としてはタブー視されていたエイズ、人権、人種差別、環境破壊、戦争の是非、死刑廃止問題などを広告で取り上げました。
この手法は、多くの人々に不快感と共感の両方を与え、議論を巻き起こし、ある国では賞賛を受け、一方では不買運動を引き起こすほどの激しい反感を買いました。
私はBに入社するやいなや、この過激な広告戦略の仕掛人であるトスカーニの前に、いきなりボンと投げ出されたのです。
OがBのために撮影した写真については、日本でも、侃々誇々(かんかんがくがく)の論争が起こりました。
時には批判、時には激励の電話を朝から受け続け、トイレに行こうにも席を立てないときさえありました。
また広告キャンペーンだけにとどまらず、例年に世界の地域文化について語ることを目的とした雑誌『カラーズ』を創刊し、現在でもそれは発刊され続けています。
この『カラーズ』と平行して、Bは朋年にTの指揮下で、R会長の故郷であるイタリアのトレビゾにアートの研究センター「ファブリカ」を創設しました。
世界中から選抜された妬歳までの若者が、奨学金、交通費、生活費を支給されて、3カ月から1年間ここに滞在し、研究を続けるというプロジェクトです。
言語や人種、宗教の違いを越え、あらゆるアートの手段を通じてコミュニケーションを図るこの研究センターの設計を手がけたのは、建築家の安藤忠雄氏です。
広告を、製品を売るための道具としてではなく、企業姿勢を示すプレゼンテーションとして捉える一連の広告キャンペーンを、日本でどのように展開していくかを考える、その仕事が私の肩に背負わされたときから、私の仕事の「進化」ははじまりました。
ここからトスカーニとの息の詰まるような関係がスタートし、また彼の偉大さに魅了されていったのです。
彼の広告活動の中心は、「すべての人間は生まれながらにして自由であり、生命の尊厳を保つために必要な権利について、誰もが平等である」という理念の追求でした。
彼の打ち出す広告は購買意欲を刺激するといった表面的な作用ではなく、人間がもっている感性や精神を揺さぶり、本能的な欲求や問題意識を刺激することを目指していたのです。
そんな彼のキャンペーンを日本で任された私は、「いったい今まで私の人生は眠っていたのだろうか?」と思うくらい、より高い極みへと導かれていきました。
国籍、文化、人種、政治体制、宗教などが異なるさまざまな国でビジネスを展開してきたBにとって、このキャンペーンはビジネス上も素晴らしい足跡を残しました。
1997年夏、Bはスポーツブランドを買収し、より国際的なマーケットに対応できる新しいBグループを誕生させました。
アパレルで培ったデザイン能力と生産能力を、傘下に収めた「プリンス」「ローラーブレード」「ノルディカ」などのスポーツ・ブランドに反映させ、新たに「プレイライフ」というカジュアルウエアのラインをスタートさせたのです。
これにより、私がBジャパンで行うPR活動の幅はますます広がりました。
スポーツはくネトングループの中で常に重要な地位を占め、一時期はチームBというフォーミュラーの世界選手権チームを保持していました。
一時ながらこのPRも、Bグループのハウスエージェンシー「ユナイテッドエージェンシー」で扱いました。
ちなみにユナィテットエージェンシーでの私のポジショニングは、取締役統括本部長でした。
私が、世界を舞台にしたPR活動を展開していたのです。
また、朋年春夏、イタリアでも大人気の作家、Y氏に前文を特別寄稿してもらい、日本を舞台にした「こけし」というタイトルのカタログを、日本発でワールドワイドに発信しました。
真夏の炎天下、原宿や渋谷で100人以上の典型的な日本のティーンエイジャーをモデルにキャスティングし、トスカーニが撮影し制作されたものです。
このカタログは、日本のみならず、当時世界7千店のべネトンショップを通じて配布され、リアルな日本の若者像を世界に向けて発信する画期的なシールとなりました。
「革新的である」ことは、Bグループのキーコンセプトでした。
ビジネスと広告活動の両面でダイナミックに革新するBグループ。
その非常に重要なマーケットである日本におけるPR活動の責任者となった私は、帥年代の広告業界を文字通り疾走したのです。
そして兇年、日本国内におけるメガストァ戦略が発表され、私はリテーリングビジネスのPRも手がけることになりました。
2000年吻月の表参道店、続く大阪梅田店と熊本店のオープン。
そしてこの本が完成している頃には、すでに京都、札幌、新宿のオープニングプロモーションを完了させ、2003年春にオープンする日本最大のメガストァ「B心斎橋」のPR業務に余念がないと思います。
Bに転職する大きな動機となったのは、シングルマザーになり、より多くの収入が必要になったためでした。
母子2人の生活レベルを人並みに維持する必要があったのです。
入社後は、幸いにもかなりの権限を与えられて働き続けることができました。
Bは他の外資系のファッションアパレル企業同様、PRと女性を優遇する企業です。
プレスを優遇するのは外資系アパレルの特徴でもあり、この皿年間、毎年の給与更改において、自分から賃金の引き上げを強く要望したことはありません。
母子2人が滞りなく暮らすのに満足のいく報酬を会社から毎年提示され続けてきたからです。
スタッフを採用する際の面接で、プレスの経験がなく、年齢もまだ若いのに、MBAを取ったから、TOEICが何点だからと驚くべき高額の初任給を要望する人が時々います。
世相厳しい今でこそ、身の程を知らない面接者は以前ほどいなくなりましたが、学歴や語学は、「ビジネスができる」という前提で初めて生きるものなのです。
ですから、私は最初の1年は力量を見る期間にして、その間の賃金は抑えています。
そしてその後は年功序列制も男女差別もない実力主義の企業の常として、自分の努力と実力で会きたのです。
社側と給料交渉していかなくてはなりません。
ここで思ったような年俸を獲得できれば幸いですが、年俸交渉どころか、「君はもういらない」と言われることだってあり得ます。
「実力主義」とはそういうことを指すのです。
ファッションプレスは非常に狭き門ではあるけれど、経験と実績さえ積めば、かなり高額の報酬を提示されるポジションです。
なぜなら、例えば定価で購入すれば、1ページ200万円はするであろうファッション誌のカラーページをそのプレスの力量でかなり安価に手に入れられる、もしくは関係者や編集者が魅了されるような企画が出せ、ページや枠を購入しなくても同じ効果の出せる扱いをしてもらうことができる、または人柄を慕って集まってくるレベルの高いスタイリストに衣装を貸し出しし、お金をかけなくても編集ページで大々的に取り上げてもらえる、など担当プレスの能力や人脈いかんで、そのブランドの知名度や売り上げを左右することができるからです。
多くの日本企業はサラリーマン的な広報担当者を一から育てようとしてきました。
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